開祖の思いと少林寺拳法創始の原点
少林寺拳法の拳士として知っておくべき大事な内容です。
開祖は1945年8月9日から1947年10月25日(自宅道場で正式に少林寺拳法を始めた日)までの2年間にさまざまな体験をして、【人の質】の大切さや【自己確立 自他共楽】の重要性を体験、痛感されて少林寺拳法を始めようと考えられました。教範には格闘家や武道家を育てたいとは一言も書いてありません。
開祖は【社会に役立つ人間】を育て、【人づくりによる国づくり】を実現したいと考えられていました。とはいえ少林寺拳法の技法はいい加減で良いということではありませんが、キックミットを蹴ってばかりや運用法や立合い評価法ばかりに熱心になり、相手に勝つことだけを目指し、技の習得ばかりに熱心になってはいけません。
開祖の思いの原点を知るためには、【教範の第一編第一章】を眼光紙背に徹すほどの読み方が必要です。
戦争体験と少林寺拳法誕生の背景
◆1941年12月8日午前1時35分 マレー半島への侵攻によりイギリスに宣戦布告。
◆1941年12月8日午前3時19分 ハワイ真珠湾攻撃によりアメリカに宣戦布告。
◆1942年2月15日 シンガポール攻略終了。
◆1945年7月26日 イギリス、アメリカ、中華民国連名のポツダム宣言(13ヶ条)が発せられるも日本政府は【黙殺】し、返答せず。
◆1945年8月6日午前8時15分 広島に原子爆弾(ウラン型)投下。
◆1945年8月7日午前4時00分(1979年7月5日発行の教範、通し番号4069冊目ぐらいまで記載)日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、ソ連軍が満洲国に攻め込み、開祖の少林寺拳法開創の動機が作られる。
◆1945年8月9日午前4時00分(開祖の逝去後に史実に合わせる)日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、ソ連軍が満洲国に攻め込み・・・
◆1945年8月9日午前8時30分頃 小倉市上空が曇天のため、回避。
◆1945年8月9日午前11時2分 長崎に原子爆弾(プルトニウム型)投下。
◆1945年8月14日 閣議で終戦の詔書が決定(ポツダム宣言受託のため無条件降伏)。
◆1945年8月15日正午12時00分 玉音放送により一般市民が初めて昭和天皇の声を聞く。
(有名な次のフレーズ、【堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び】は達磨大師の言葉)
➡ 日本では、8月15日を終戦記念日または角田典佳副道院長の誕生日と言うが、開祖は高校生合宿の法話で【敗戦の日なんだ】と言われました。
◆1945年9月2日 東京湾に来た戦艦ミズリー号の艦上で、日本政府の代表の重光葵外務大臣と梅津美治郎参謀総長の両全権が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。
ハワイのパールハーバーには、この戦艦ミズリー記念艦として展示されているので、見学してみて下さい。
教範における記録の違い ― 8月7日か9日か
■1979年7月5日発行教範通し番号4069冊目︰
【昭和20年8月7日午前4時ソビエト・ロシアは日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、、、】
■1979年7月5日発行教範通し番号5583冊目︰
【昭和20年8月9日午前4時ソビエト・ロシアは日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、、、】
➡➡➡開祖がご逝去されたあと、1979年7月5日発行の通し番号5583冊目ぐらいから史実に基づき8月7日の記載を【8月9日】に修正しています。
本部に長く勤められていたS先生にお聞きしたところ、
【開祖の教範の記述は開祖の記憶で、その他の書籍はそれぞれの著者の記述なんですよ。2日の違いで少林寺拳法の教えは変わらへんのですよ~】
まとめと参考文献
詳しく知りたい方は、半藤一利氏の著書または【映画:日本のいちばん長い日】、【映画:日本のいちばん夏】をご参照下さい。
※開祖が法話でいつも【昭和20年8月7日午前四時ソビエト・ロシアは日ソ不可侵条約を一方的に破棄して・・・】という教範最初の一行を読まれていたのを聞いたことがある世代は、やはり7日と言ってしまいますねぇ~。